2009年12月25日
南京陥落までの状況
日本側
1937年11月、第二次上海事変に投入された上海派遣軍と第10軍は、上海で中国軍を撃ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無
視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍
に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の陸軍大将松井石根は、中国軍に対し
開城(降伏)を勧告した。
中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を開始し、12月13日に南京城を陥落させた。
中国(中華民国)側
1937年11月5日、上海に攻め込んでいた中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱
を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影
響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを
宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。
11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われ
る(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなっ
てきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退
を命令した。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊さ
れつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとなった。
東京裁判で初めて名称が登場した際には「南京暴行事件」と呼称され、その派生名として「南京虐殺事件」という呼称もなされた。
「南京大虐殺」という名称は本多勝一が「中国の旅」の中で使用したのが最初とされ以降は大衆にも浸透していった。今日の歴史教
科書では単に「南京事件」と表記されることが多い。その他「南京虐殺」という表記も見られる。
中華人民共和国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。南京事件という呼び方は、不
法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。
事件の概要
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防
衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無
理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を
行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
中国軍捕虜や、敗残兵、便衣兵及びなんと一般市民までをを不法に虐殺したとされる事件です。
事実の真偽はわかりませんが、おそらく日本はそんなひどいことはしないとおもいます。
- Permalink
- by
- at 21:46